2025年2月9日日曜日

ふるさと納税へのポイント付与が終了したら

 iij mio が値下げやデータ増量へ。
「IIJmioモバイルサービス ギガプラン」一部プランでのデータ増量 および月額基本料金値下げは、楽天モバイルユーザーにも刺さるアナウンスではないだろうか

 いま、楽天モバイル使っているけど、友だち紹介プログラムやら標準電話アプリを使用した一定時間通話料無料のプロモーションメールが多く辟易していた。楽天Linkは通話料無料がアドバンテージではあるは魅力だが、冷静になって考えてみるとそんなに通話しないし、専用アプリは、電話アプリといえないようなプロモーションや宣伝が入り込んでいてて最悪な状態で、それに制約・制限は案外と面倒くさい。だから以前からAndroidの標準通話アプリに移行したいと思っていた(楽天Linkがあればそっちを使ってしまうけど。)。

 楽天モバイル+楽天カードで楽天経済圏の恩恵にあずかっていたけど、ふるさと納税のポイント付与終了したら、それで稼げていたポイントが丸々なくなってしまう。
 ポイントが少なくなったら楽天経済圏に拘る必要もなくなるから、楽天市場でのふるさと納税へのポイント付与が9月30日で終了する9月末が潮どきで、楽天経済圏から離脱して、iijに乗り換えるかな。

 iij mioの25GBで税込み2,000円なら、容量はそれで十分だし、うるさい楽天モバイルもプロモーション類から離れてスマホ環境をシンプル化するチャンスと考えて以降することを考えようと思う。
 楽天モバイルから離れたらポイントの中心をどこに移すのか?はJREポイントが一つの選択肢だけど、もうしばらく考えよう

2025年1月19日日曜日

モバイルバッテリーや交換したスマホ内蔵電池の廃棄

 Amazonで購入した中華製モバイルバッテリーや、先日自前で交換したスマホ内蔵バッテリーで使えなくなった廃棄するリチウムイオン電池の廃棄に困っていた。

 最近、ニュースでゴミ収集車やゴミ処理場で火災が発生した、と言う話もよく聞く。スプレー缶なども原因の一つと考えられるが、リチウムイオン電池は衝撃・損傷すると内部でショートして発火したりするそうだ。だから、リチウムイオン電池は通常のゴミと一緒にゴミ出ししてはいけない。東京都知事もそう言っている。

 収集車や処理場で火災を起こすと多大な金額的な損失が発生するだけではなく、ゴミ処理インフラが機能しないことによる重要なインフラサービスであるゴミ回収とその処理がおこなえなくなり市民生活に重大な支障・影響を及ぼすことから、真剣に考えないといけない。

 スマホが一人一台当たり前の世の中、災害などに備えてモバイルバッテリーを用意する人も多いだろうし(むしろ推奨されている)、なによりAmazonなどでは中国製のあまり聞かないモバイルバッテリーが簡単に、そして名のしれたメーカー製のモバイルバッテリーよりかなり安価安に入手できるような世の中である。

 モバイルバッテリーはスマホの電池と同様に消耗して3年から4年で充電できる容量が減ってしまうため、スマホの本体と同じで買い替えられる運命であるが、そのときにどう処分するかについてよくよく考えてから購入したほうがよい、というのが今回のblogの趣旨である。
 我が家にも四〜五年前にアマゾンで購入した、20,000mmWhの中国製モバイルバッテリーがあった。もう最近は使用していない。充電しても容量(パーセント表示)が怪しいのだ。

 また、最近電池が持たなくなったGoogle Pixel3はメイン機の役割を退役したが、PovoのSimを入れQuadLockの頑丈なスマホケースにいれてバイクのナビ専用機としてまだ使っている。アマゾンで交換用の内蔵電池(+簡単な交換用工具のセット)だけを購入しDIYで交換したら、スマホから使えなくなったリチウムイオン電池が出てきてしまう(当たりまえ)。

 前述したようにリチウムイオン電池をどう廃棄するのか?といろいろ調べたところ、まずは販売店等で引き取ってもらいましょう、という検索結果が出てくる。これはJBRCという、小型充電式電池のリサイクル団体にそのバッテリーのメーカーが加盟していれば、引き取ってもらえるが、アマゾンから買った聞いたこともない名前のモバイルバッテリーは加盟しているはずもない(リストに名前がない)。
 同様に内蔵バッテリーを交換したスマホから出てきた内蔵バッテリーも同然だ。
 では、どうするか?だが、あとは自治体に確認してみてください、というのがたいていのWEBサイトの記述であり、これは匙を投げたも同様である。
 実際、私が住んでいる自治体はWeb上では「JBRC・販売店のいずれも引取りができない二次電池は問い合わせてください」といっていた。
 このため、自治体に問い合わせたところ、今回は個別に引取しますので◯◯の清掃事務所に直接持ち込んでください、と言われた。
 なんとか平日に清掃事務所の窓口に赴きそれらの電池の廃棄を依頼できたのだが、決してレアケースではないと思った。

 ルール化・法整備せずリチウムイオンバッテリーの販売・利用・廃棄が野放図になっている現状が、ゴミ収集者やゴミ処理場で火災が起こしているのである。
 今回の教訓は、まず販売者はJBRCで電池回収できない製品を販売しないことにしてほしいし、もちろん消費者側はJBRCに加盟していないメーカーの充電池は買わないということにしたいものだ。

2024年7月28日日曜日

多摩川源流の水干をもとめて

 数年かけて多摩川をランで繋いで、河口から小河内ダム(奥多摩湖)まで走ってきた。ダムから上流は車道オンリーになるで実現は難しいのだが、多摩川の最上流地点の源流といってもいいのは水干(みずひ)と呼ばれる場所になる。
これは山梨県と埼玉県境にある笠取山の直下の湧水から流れ出る小流だ。7月の終わりに友人と連れ立って、笠取山登山と合わせて水干を巡ってきた。

 笠取山へは国道411号線から一之瀬高原キャンプ場の方面に向かって車を進め、作場平というところにある登山口から笠取山へ向けて登山スタート。

 岩や倒木が苔むしている。下草がキレイに刈られているが、決して人工的な感じがするわけではなく、しっかり人の手が入っていることが感ぜられるのだ。笠取山から南側周辺一帯は広大な東京都の水源地として管理されていて、涵養林となっている。
沢沿いの山道を進み、丸太を渡した木橋でなんどか沢をわたりながら高度を稼ぎ、ヤブ沢峠の尾根に出る。
そこから林道を進むと、笠取小屋。ここにはテント場と、きれいなバイオトイレがある。さらに先に進むと段々と視界が開けてきて、ちいさな三分水界。
 南側の東京都方面へと流れる多摩川水系、北側の埼玉県方面へと流れる荒川水系および、西側の山梨県方面へと流れる富士川水系の3分水界だ。
ちょっとでもずれて降った雨粒は、流れ下る川(水系)が異なるということになる(厳密には地下水までそうなっているか?はあるけど)。

 そこからしばらくなだらかな尾根道を進むと眼前に笹薮の急登が現れる。笠取山頂直下である。

 すぐに斜度30°ぐらいはあると思われ、かなり息があがるが、それをクリアすると一つめのピーク。後で気がつくがここは笠取山頂ではない。ただ雰囲気はこちらのほうが山頂。清々しい気持ちだけでなく、標高のお陰でかなり涼しい。(日射は厳しいけど。)

細い岩だらけの尾根道をすこし進むと1,943mの山頂があるがこちらは狭く、すぐに通り抜け、山を下り始める。しばらく山頂を巻くように降りてくると、水干に至る。
水干は山頂の直下の岩の間から湧き出るポイントのようだが、その日は水は出ていなかった。
ただ、水干からちょっと進んだ先にある水道道という案内を進むと、水干の下で地表に流れが出てくるところまで降りることができて、そこには岩の間からきれいな流れ出る様を見ることができた。
7月の暑い日であるにも関わらずその水は結構冷たくて、冷感タオルを浸して首に巻くと、まるで保冷剤でも入れているかのよう。

 水干から流れ下る水は水干沢を下り、一之瀬川から丹波川を経て、奥多摩湖に注ぐ。そこから多摩川となり、大田区羽田の河口までいく。
水干から河口まで138kmに及ぶそうだ。

 朝7時に作場平をでたが、コースタイムでいくと正午までには帰れる。これは午後から雨の予報があったのだ。実際、ちいさな三分水界の下まで戻ってきたときには、北の方の山には黒い雲がかかり始めていた。
笠取小屋でラーメン作って食べようか、と言っていたのだが、早めにスタート地点の作場平まで戻ることに変更。笠取小屋にあるつめたい湧き水で顔を洗って再出発。下山ルートはヤブ沢峠経由ではなく、沢沿いの山道を下っていく。小屋の下の道は沢沿いで、流れが豊富かつ鮮烈だ。暑いので手を浸し涼を取る。

 小屋から約1時間かけて作場平の駐車場まで戻ってきた。
 帰りは道の駅併設の小菅の湯で温泉&サウナを満喫。入浴中に結構な雨がふってきたが、真夏のサウナ後の外気浴には体感温度が下がって恵みの雨となった。

 笠取山と水干は山が手入れされた山だったし、暑い季節は山頂の涼風と沢の流れに癒やされるとことを感じれた登山となった。

2024年7月21日日曜日

サロマ湖100kmウルトラマラソン(あとがき)

サロマが終わってから約2週間経過後にこれを書いている。そういえばそろそろ記録証が速報から確定になっているだろうか?と思ったら、そうなっていた(グロスタイム 12:40:19)。いろいろ、回想した。

サロマは62キロ超の初大会だった。確かに後半は足の痛みで苦しんだが、なにより・とにかく暑かった。というのが今回の一番の思い出。
実際、完走率も58.8%と低く、これは気温によるものだと思う。

レース直後はやり切った・出し切ったという充足感があった(それはそれでよかったのだが)が、タラレバはないが気温がもうすこし低ければ、走りやすくて且つタイムも伸びとおもう。
そういう意味では、あれだけの気温の中で10時間を切るトップランナーの気力とスタミナは並大抵でなく、自分はウルトラマラソンの順位の中では上位80%程度だ(フルマラソンよりかなり悪い。)。

まだ、やれることはあるのだろうか?
レースが終わってすぐのころは、暑かった中盤の坂道の苦しみや後半の足の痛みから、もうウルトラマラソンは良いかなぁと思っていた。
その痛みが去るとまた走ってみたいと考えるようになり、他の人はサロマ湖をどう走ったんだろう?と、気になってYoutube動画を見たりしていた。すでにサロマ湖ロスなんだろうか。(ちなみに、太ももの痛みはしばらく継続し、フルマラソン後ではありえないほど長引いた。)

レース自体は、やはり気温に合わせて走るしかない。どれくらい後半へ体力を温存できるか?という考え方をベースにしないと、ウルトラマラソンは完走できないことが身に染みた。
だから、暑さがある以上、給水は必須。だからフラスクを携行することは必須だ。今回もおそらく多くのランナーが、エイドの給水だけでは足りなかったのではないかと思う。携行しなかったとすると、エイドで水分を一気飲みしがちだが、それをするのも良くなくて、走っていると胃がガボガボになり、おそらく胃腸がやられる。
だから、エイドではフラスクに水を満たしてもらって、それを(重いけど)持って走りながらこまめに自己給水するのが良いと思った。

一方では、携帯する補給食は課題があった。
スリムかつシンプルにして、軽量化する必要があると。自分はジェルをあれこれと携帯し過ぎてしまい、3本ほどトレランザックに入れて走ったが、結果的に1本の半分しか摂らなかった。
軽量化して、エイドステーションで出される食事をしっかりと摂れるようにした方が、携行物の軽量化と自分への胃腸への負担を減らせる。
また、心配ならば後半のためにドロップバッグに入れておく程度でもよかったと思った。

反省点は以上。
今シーズンの大会出場としてはサロマ湖で終わる。
だから、これから始まる夏のシーズンオフと秋からの来シーズンをどう走るか?と考えて、大会出場を検討したい。そして、その延長線上で再度ウルトラマラソンに出走するかどうか?決めたい。

まず、今シーズンはどうだったのか。
2023秋の出場大会は、9月の東和棚田のんびりRUN(ハーフ)、10月の信濃大町アルプスマラソン(フル)、11月のつくばマラソン(フル)でフルの自己ベストを出せた。
直近の2024春の出場大会は、1月勝田全国マラソン(フル)、2月青梅(30km)、3月東京マラソン(フル)、4月チャレンジ富士五湖ウルトラマラソン(62km)、5月黒部名水マラソン(フル)と走ってきての、6月サロマ湖(100km)だった。
1月の勝田では事前に体調を崩してしまい中盤から全くレースにならなかったが、概ね良い大会ローテーションだったのではないかと思っている。

来シーズン2024秋の大会は、9月一関国際(ハーフ)、10月水戸黄門漫遊(フル)、11月つくば(フル)とエントリー済み。まずは本命大会11月のつくば目指して調整していくこととなるが、そのあとをどうするか。
以降は未定だが、秋のフルマラソンはいつもどおり2大会走るので、12月は足立フレンドリー(ハーフ)か。はたまた、同日開催となるであろう、12月15日(日)に開催される第7回沖縄100Kウルトラマラソンも気にはなる…。

ただ、財政面も考えないといけない。

サロマは思い切って良い宿に泊まってレースに出た。満足感がたかかったのだが、さすがに毎年出場するのに十数万円を出費しつづけるわけにもいかない。
もし次回もサロマに出走するなら少しは財政を圧迫しない行程を考えないといけない。


ちなみに次回は、8月番外編で長野県上田市丸子で開催される爆水ランという川の中を走る面白いレースに出場しようとしている。もし、気が向いたらそれも書き残そうと思っています。結局、真夏の練習のことは書けていない(考えたくないからか・・)が。

2024年7月20日土曜日

サロマ湖100kmウルトラマラソン2024 後編

 80キロまでは、スタミナ的にも脚力的にもゴールできるだろうか?という不安があったサロマ湖100kmウルトラマン2024だったが、薬で痛みと攣り防止し、やり過ごしながら走れている。80キロのエイドにたどり着き、ここでもオレンジだけを摂取して、いよいよワッカ原生花園内に入る。

 ワッカ原生花園は、細長い砂州にあるので麦乾工場から折り返し地点まで10キロもの長大なスライド区間であり、かつ細い遊歩道なので走路が狭い。また、砂州は平らではなく、小刻みなアップダウンとなっている。もうゆるい坂路を走れるだけの脚力が残っていないので、上りは歩きたくなるし、下りはショックが脚に響くのでまたあるきたくなる。結果、8:00/km台のペースに落ちてしまう。原生花園の中で朦朧とする頭で計算したところ、残り20kmをキロ9分だとギリギリの可能性があるので、9分にはならないよう、走れるところは走って、なんとかトータルで7:00/kmは維持したいと考えて園内を進む。
 見通しは利くので遠くに折り返しの巨大なコンクリート橋(サロマ湖と外海であるオホーツク海を結ぶ水路にかかる橋)が見えるが、全く近づいてくる気配がない。入り口から折り返しまで9キロほどあるのだ。ただ、体感的には1.5倍くらいの距離があるように感じた。これがサロマ湖100kmウルトラマラソンのワッカの厳しさなんだと実感した。

 唯一救われたのは、オホーツク海に近づいたのと時間が15時頃になって気温が下がってきて、前半と中盤での暑さから開放されたことだ。原生花園内では水掛けしなくても十分に走れるようにはなったので、アームカバーと首の冷感タオルを外し、2.5kmごとのエイドでは水分だけ補給して先に進む。
 折り返しの橋は大きく巨大なコンクリート橋なので、結構な上り下りがある。頂上に到達すると左手はサロマ湖を望み、右手にはさらに広大なオホーツク海を一望できる。なお、橋の頂上で折り返すと思っていたが、反対側のグラウンドレベルの砂州まで下り切ってから折り返すので、上りも下りも2回あるのはここまで脚を消耗した身体には堪える。ほぼすべてのランナーは上りを走る脚が残っていないようだった。
 橋を折り返してしばらく走ると90キロポスト。9:00/kmなら18時の制限時間内にゴールできそうだと計算できたが、すべて歩くと9:00/kmはキープできないこともわかっていた。ゴールまで10キロ、脚が残ってくれるかどうか。痛み止めと攣り防止の薬はもうない。
 また、スライドして原生花園内を折り返し地点に向かうランナーが減ってきた。おそらく80キロ地点のエイドでの関門が閉鎖されたんだろう。

 残り時間とか脚力が残ってくれることを考えながら、細かい上り下りが多く辛かったワッカ原生花園をなんとか抜け、麦乾工場まで戻ってきた。ワッカ入り口の80キロのエイドステーションは、スライドして戻ってくるとワッカ出口の97キロのエイドでもあり、そこでオレンジジュースを飲んで残り3キロに臨む。
 ワッカを出ると再び平坦な自動車道なので走りやすくなる。気持ち的には僅か3キロなのだが、一歩一歩の着地衝撃が大腿四頭筋に響き、脚攣りも怖く思ったよりペースをあげられず、気持ちが考えているほどスピードが出ない。
 最後の直線に差し掛かると常呂町の両脇の沿道に多くの人が応援してくれる。一斉の「おかえり〜」コールだ。自分も感極まってきた。
 ゴール会場のDJがナンバーと自分の名前を読み上げて、事前に登録していたメッセージを読んでくれた。
 よく持ってくれた自分の脚。また、今回は胃腸が文句を言わずに100キロ付き合ってくれた。自分の体が本当によく頑張ってくれたと思う。
 最後は常呂町スポーツセンター内にあるゴールに向かって右折し、200mほどでゴールする。12:40:19と制限時間まで20分を切っていた。

 ゴールを切って、泣いてはいないけど、ちょっと涙腺が緩んだ。この感覚はフルマラソンにはない感動だったが、本当に過酷な100kmだった。
 首からフィニッシャーズメダルを掛けてもらう。ちょっと歩いたテントでもらったアイシング用の氷を当てるため腰掛けたがもう前腿が全く動かなくなっていた。立てない。
 本当に気力だけで脚は動いてくれていたのかもしれない。

 その後、もう着替えるだけの力も残っておらず、大江本家の迎えのバスまで足を引きずってなんとか乗り込み(バスの乗降段が上がれない)、宿へとまた一時間以上を掛け戻る。
 宿に帰投して風呂でベトベトの汗を流す。前にも書いたがスタート前と比べて体重が2kg減った。
 すでに宿の食事の時間が過ぎているが、特別な和午前が用意されていた。一杯だけ完走賞のビールを飲んだら、体力限界の疲れと2日間の寝不足による睡魔が襲ってきてすぐに落ちた。

 ワッカもきつかったが、一番つらかったのはフルマラソン超えて60キロまでのアップダウンがあった中盤戦だったと思う。本当に暑く、水掛けしたり氷を貰って腕や脚や頭を冷やした。タラレバはないけど、もし暑さがなければもう少し楽な中盤だったと思う。
 あとは新しい発見もあった。65キロ以降はゾーンに入った様に7:00/kmで走り続けられたことだ(ただし、ペースアップすることはできず同じ7分ペースでしか走れないのだが。)。フルマラソンでは決してなり得ない経験だった。
 フルマラソンとは全く違う世界・感覚があった100キロ完走だった。